松平忠誠 (武蔵国忍藩主) (Tadazane MATSUDAIRA (the lord of Oshi Domain in Musashi Province))

松平 忠誠(まつだいら ただざね、天保11年1月5日 (旧暦)(1840年2月7日) - 明治2年6月5日 (旧暦)(1869年7月13日))は、江戸時代末期の大名。
武蔵国忍藩第4代藩主。
奥平松平家12代。

下野国烏山藩主・大久保忠保の弟・大久保忠声の長男。
正室は太田資始の娘。
幼名は八五郎。
官位は従四位下、下野守のち下総国守。

略歴
忍藩の後継として入嗣していた松平忠毅の廃嫡により、新たに養子となった。

文久3年(1863年)、松平忠国 (武蔵国忍藩主)から家督を譲られて藩主となった。
水戸藩の天狗党鎮圧、京都警護などで功績を挙げた。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、藩内が新政府に抗戦するか恭順するかで二分したとき、忠誠は藩論を一つにまとめられなかった。
しかし、隠居の忠国の登場によって藩論は恭順でまとまり、忠誠は新政府軍に降伏した。
明治2年(1869年)、養父・忠国の後を追うように30歳で没した。

法号:霊源院殿潤渓了澤大居士。
墓所は埼玉県行田市埼玉の臨済宗妙心寺派海東山・天祥寺。
(1972年11月9日・市指定文化財)

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